わからない

心配でしょう、心配だよね?
と、子供のことを言われると、私は微妙な立ち位置になる。

正直、自分の感情がわからなくなっている。
病院にいるとき、子供のことを話していると泣いていることが多かった。でも、もうよくわからない。泣き疲れたのだろうか。
そんなわからない感情だなんて、私は育児放棄なのだろうか。
私の中では過去のことになってしまったのだろうか。

年齢的にもそろそろ一人でいろいろなことをやっていく時が差し迫っていたように思う。何もかも手を添えてやるわけではなく、勉強ももうある程度まで到達し、私よりも外部に委託した方がいいけれど、お金が無いので申し訳なく、どうしようか悩んでいた。

やって意味のないレベルだと思うなら、近場でいいと思うが、ある程度のレベルに到達した子にそれはかわいそうだと思う。
田舎ではレベルが低いので、電車に乗って名古屋まで通ったほうがいいのか。しかし本人は他のこともしたいだろうから時間を取られるのが嫌だろうから、通信教材で四谷大塚を頑張って申し込むか。

今まで無理やりやらせているわけではなく、本人と相談した上でどうしたいのか決めてきた。平日は泥遊びに勤しんでいるようなので、それをやっていていいよと。土日は遠出して遊びに行ったりすることもあるけど、本人がやると言った通信教材を二人で○付けしたり、一緒に読んだり。解き方のわからないものは、わかるものを探してきたり、図書館に行ったり。

なんだかもうやり切った感があるのだろうか。
私はこれから要るだろうかと。
それに加えて、大きな本棚などせっかく作った環境をぶち壊して、あの人のよくわからない価値観一色になっていた部屋を目の当たりにして、余計によくわからなくなってしまった。

あの人とはいろいろズレがある。一番のズレは教育観だと思う。
そもそも合う部分があったのだろうかとも。
付き合ったのも、今までとはまったく別の、たぶん普通には付き合わないだろう相手を選んでみた。過去を引きずって違う方面を探してみた結果、そんな人と結婚してしまった私は軽蔑に値する人間だともわかっている。不潔だ。

私がしてやれることは何なのかわからない。
この無様な私がいていいのかさえわからない。
私なんかが存在していて申し訳ないという気持ちでしかない。
あのとき死んでいたら、それはそれで本人の心情としてすっきりさせられたのかもしれない。ごめんなさいの気持ちしか浮かばない。